1947

戦争当時、東上線池袋駅の芋電車

陸軍中尉時代の田沼文蔵
「若い学生さんたちにお腹いっぱいご飯を食べてもらいたい」との思いから食堂経営を開始
復員した田沼文蔵は、慶應義塾大学の森教授から「学生寮の面倒を見てほしい」と依頼を受けた。予想もしなかった誘いに戸惑いを感じるも、明日の日本を背負って立つ若い学生に戦地で命を奪われた多くの部下の姿が重なり、寮生150人ほどの慶應義塾大学の予科学生寮(川崎市・登戸)を引き受けることとなった。寝食を共にして学生の面倒を見、立派に社会に送り出す仕事は社会的に有意義な仕事と考えたのである。
しかし、終戦後の食糧難の時代。自分の食糧確保すら難しい。食べ盛りの学生たちのための食糧調達に知恵を絞る毎日。文蔵は寮生と共に農家へ買い出しに出掛けたり、農作業の手伝いをするなどして食糧確保に努めた。
1950

創業当時のグリーンハウス(1952年)
慶應日吉校舎に食堂が移転
慶應義塾大学の日吉校舎が進駐軍から返還されることを機に、食堂が日吉校舎へ移転。
1954

慶應義塾大学日吉キャンパスに新設されたグリーンハウス
学生公募で誕生した社名
会社名を慶應義塾大学の学生から公募。応募件数は100点を超えた。グリーンと白に彩られた食堂の外観に、若さと明るさ、そして希望が込められた名前「グリーンハウス」に決定。そして、有限会社グリーンハウスを設立する。
1955

食堂内にて。慶應義塾大学生に囲まれた田沼文蔵(1956年)
食堂の閉鎖がのちの多角化戦略へ
創立百年祭の記念館建設のため、日吉校舎の食堂は閉鎖、立ち退きを迫られた。再開に向けた努力が実り、代替地に自己資金で食堂を新設することとなったが、建設に当たっては資金計画の難しさも経験。この困難が、その後のグリーンハウスの経営基盤の強化、事業多角化への想いへとつながっていく。